【和次元・滴や】は、京都・鴨川のほとり、商業地域の喧騒から少し離れた住宅街から、さらに路地を奥に入っていった古い数寄屋造の邸宅にあります。店の隣には史蹟《山紫水明処》があり、その庭を臨むことができます。《山紫水明処》とは、江戸時代の学者、頼山陽の晩年の書斎(入母屋造・茅葺の平屋)で、ここで〈日本外史〉などを完成させました。
この《山紫水明処》を挟んだ向こう側に〈鴨川〉が流れています。京都人に愛されている鴨川の遊歩道は、いつもジョギングやサイクリングをする人々が行き交い、南へ下れば四条通りをくぐって〈三十三間堂〉の辺りまで、北へ上れば鴨川デルタを越えて〈上賀茂神社〉まで、気持ちの良い道が続いています。
また、店の界隈は《東三本木通り》と呼ばれ、今でこそ静かな住宅街ですが、幕末には旅館料亭が建ち並ぶ花街でした。新撰組に追われる桂小五郎を愛人の幾松が匿った〈吉田屋〉や、西郷隆盛が禁門の変の前に大演説をした〈清輝楼〉も、この通りにありました。(ちなみに志賀直哉の〈暗夜行路〉で主人公が妻に一目惚れしたのも《東三本木》です)
京都も他の都市と同様に、昔の面影は年々失われています。そんな状況の中、古い数寄屋建築とそこに続く路地が市街地にぽつんと残されている奇跡は、隣接する《山紫水明処》が史蹟に指定されているが故でしょう。まさに〈市中の山居〉と呼ぶに相応しい場所に構えた店はアトリエを兼ね、古い邸宅の魅力を損ねることなく、畳敷きの和室をそのまま利用しています。
ここで【和次元・滴や】が活動する最も大切な理由の一つが〈畳の座敷〉にあります。
日本の偉人を描いた肖像画のおおよそは、床に座った姿で描かれています。これは和服での座った姿が美しいからに他なりません。
色柄は流行により様々に変わっても、和服の根底に流れる日本的な美意識までは変えられないと【和次元・滴や】は考えています。残念ながら、現代の住環境において日本人の〈畳〉離れも深刻です。しかし【和次元・滴や】としては、本来日本人が大切にしてきた〈座った時の美しさまで追求する姿勢〉や〈生活環境に対する考え方〉を踏まえた本質的な新しい和服作りを志しており、お客様に〈座った時の美しさ〉を実感していただく上でも、〈畳の座敷〉は最高の環境なのです。